
告白
「お待ちどうちゃま!」
ほかほかと湯気が立つご飯をBJの前にコトッと置き、そして自分の方にも置いてピノコは着席した。
午前11時
今から朝飯、である。
朝飯というよりもう昼飯といった方が適切かもしれない。
なぜこんな遅くなってしまったのか。それはBJに多少原因があった。
この4ヵ月間、彼は仕事のため岬の家を離れており、昨夜深夜帰宅した。
が、毎度連絡を欠かさない彼は珍しくもし忘れてしまったため、目覚めたピノコは見慣れた車が駐車しているのに驚いた。
「大した食材がないよのさ!」と慌てて買い出しに出掛けたので朝食が遅くなった。
そんなバタバタ騒ぎに起こされたBJは冷蔵庫を開けて疑問が生じた。十分に食材はあるのだ。わざわざ買い出しする必要はないのにと欠伸をしながら思った。
「ねぇ、ちぇんちぇ!前約束ちたデパート行くの、覚えてゆ?」
「ああ。連れてってやるけど、その舌足らず、いい加減直したらどうだ?4ヵ月前と全く変わってないじゃないか」
「急には無理よのさ」
しれっと言いのけるピノコに全く矯正しようとする意志すら見当たらない。これまで放任教育を施してきたが、こればかりは教えてやらなければ一向に改善しないだろう。
そう思い、箸を掴もうとしたところでガタンッと、足と鼓膜にそれぞれ震動が響いた。
顔をあげると、眉間に皺を寄せ先程まで整っていたはずの顔を歪ませたピノコ、そして後ろには、ひっくり返ったイスが彼の眼に映った。
「ピノコ…?」
BJは怪訝な表情で彼女の名を呼ぶと、何かを出さないよう手で口を押さえ、ピノコは一目散に廊下へと飛び出していく。その姿を見送る形になってしまい、BJは唖然としていた。
トイレから呻き声と共に吐瀉音が聞こえ、半年前の記憶が蘇る。
『あー…ちぇっかくのケーキが』
『加減というもんがあるだろ。まだ本調子じゃないのにそんな食べて…』
洗面器から顔をあげ不平を漏らす口をタオルで拭ってやる。
『早く慣らしたかったんらもん』
『そんな焦らずに少しずつ慣らしていけばいい』
臓器を新たな体へ入れ替えた後、消化機能の適応が未熟で、食べ物を戻してしまうことがしばらく続いた。慣らすことで徐々に嘔吐はなくなる。臓器の拒絶反応が出なかっただけでも救いだった。
それは一ヵ月程度で治まり、もう正常に働くようになったと、私もピノコも胸をなで下ろしたのだった。
「どうした?!どこか悪いところがあるのか?!」
ドアを強くノックして尋ねると、一つ間があいて返事が返ってきた。
「べ、べちゅにたいちたことじゃないよのさ!」
くぐもった声で言葉を濁すピノコに私は追討ちを掛けるように問い質す。
「お前の体はいつ不安定になるか分からないんだ!隠すんじゃない!!」
ドア越しとはいえ気迫は凄まじいもので、言わねば執念深い先生だ。いつまでもトイレから出られないと思ったピノコは渋々白状する。
「夜中にラーメン食べちゃってね…胃もたれなのよさ…。でも吐いたらすっきりちたからもうらいじょうぶ!!」
BJは唖然とし思考が停止した。
「ちぇんちぇ…?」
急に無言になったドア越しの相手を不審に思い、様子を窺うように呼ぶと雷が落ちた。
「夜中にラーメン食う奴がいるかー!!」
BJの一喝が家中に轟く。それに驚きなしたラルゴが怯えて鳴くほどだから相当なものだ。
「らって食べたくてしょうがなかったんらもん。ちぇんちぇだってボンカレー食べてゆじゃない!ピノコちってゆんらから!」
「そ、それは……って!俺を引き合いに出すな!」
夜中にラーメンなんて、飲んだサラリーマンが最後のシメでいくヤツじゃないか。弱冠18歳の子がまったく…。
「就寝3時間前までに食事を済まさない胃に悪いんだ。特にピノコはな!」
「じゃあしばらく起きてればいいわのね」
盛大な溜息を吐くと、BJはズカズカと食卓へと戻っていった。
足音が遠ざかるとピノコはドアに背を預け、弧を描いていた口元が水平へとなり、そっと眼を閉じた。
「今日こそ定期検査するぞ」
ドアの前で仁王立ちしたBJは、ベッドでケータイをいじるピノコに言い付けた。それにピクッと反応し弾かれたように体を起こしたピノコは、そそくさとバッグを手に取り、出掛ける準備を始める。
「ここれから、映画観に行くのよさ。また今度にちて…?」
ケータイをバッグに入れるとBJとは逆方向の窓へと向かう。ドアが封鎖しているなら、残る脱出口は窓しかないと判断したのだろう。
しかしBJが黙って見逃す訳がない。呆気なくピノコは腕を掴まれてしまう。
「今度今度って、何度その手を使うつもりだ」
「ほんとに映画なのよさ~!」
にこにこと笑い事実だと訴えるピノコは、斜めに視線を落として合わないようにしている。
やはりおかしい。
BJは思った。
長期出張から帰宅して3日経過して以来、ピノコの奇妙な行動が目立つようになり、BJは日に日に眉をひそめる度合いが増していった。
検診と聞けば出掛ける。
度重なる嘔吐。
そして食の嗜好の変化。
以前梅干しなど、「しゅっぱ~い」と顔を歪ませ、好き好んで幾つも食べることはなかった。
それが梅干しではないにしても、梅味グミを摘む光景を多く目にする。めったに買わない食べないそのグミを口に含んでは唸り至福にふけるピノコを不可解に感じ、何か引っ掛かった。
嗜好は日々変化していく。
取り立てて気にする必要はないかもしれないが、嘔吐と酸味を欲する、このダブルの組み合わせに"とあるコト"を意識させる。
脳内に浮かび上がる2文字
それはまず、ありえない。あるはずがないのだ…。
はっきりさせるためにも検査をしたいのであった。
「なぁ、検査されて困ることでもあるのか?」
「ないわのよ」
平気と主張してはいるものの、語気が弱々しくどこか拒否の色が含まれている。
「なら問題ないはずだよな」
言い終わると同時にピノコを持ち上げて肩に抱えた。
「あっ…今はダメなのよさ!映画が!!おろちてッ」
背中をパンパンと叩いて抗議してくる声を無視しBJは書斎室へ連れて行く。
「消費期限切れしたの食べたって言ってたが、あれは嘘なんだろ」
諦めがついたのか、体をジタバタと動かし抵抗していた体はおとなしくなった。
その体を診察台に下ろすと、書物やらファイルが納められている棚に向かい、その中から分厚いファイルを取り出す。
このファイルにはピノコのカルテがある。
聴診器とファイルを手に戻ってくると向かいにイスを引き寄せ腰掛けた。
「どうした?」
黙ったまま俯いているピノコを不審に思ったBJは、覗き込もうとした。するとピノコは顔を徐にあげる。
「先生、もう…察してゆかもちれないけど落ち着いて聞いてね」
声のトーンを落とし、神妙な表情でそう切り出したピノコは緊張しているのか、手元がほんの僅か、震えている。
無意識にファイルを掴む手に力が入る。
膝に置かれた手は腹部へと移すと、ごくりと唾を飲み込んで身構えるBJを見つめ、意を決したように告げた。
「あたし妊娠ちたの」
ドサッ…
ファイルが落ち足元にカルテが広がっていく。
「生理遅れてゆにちても遅過ぎゆし診てもらったの。そしたら3ヵ月だって」
ピノコはしゃがんで散乱したカルテを拾い始め、言葉を失っているBJに次々と診察結果を話し出す。
BJはその姿を呆然と見下ろした。
確かに妊娠の疑いを持ってはいた。
だが、あんなにしつこいほど私に愛をぶつけてきたこの子が、他人を愛する、まして交わるはずがない。
そう自負していたBJは、裏切られたように感じ怒りが込み上がってきた。
ピノコだけでなく相手の男にも。
カルテを揃え終わると、はいっと言わんばかりにその束を差し出す。
それを力任せに払いのけ、カルテなど眼中なく机に置かれたコートを羽織ると、まだしゃがんだままのピノコを引っ張り上げた。
「痛っ…」
手首をきつく握り締められ痛みに声をあげる。そんな声はBJの耳に届かず。
「まずは相手の男に会わせろ」
「あの…相手は「ピノコちゃーん!どうだったー?」
緊迫した空気に元気よく登場したのは和登。
しかし和登は入ってきた時のにっこり顔をそのまま張り付いたまま凍ってしまった。
怒り心頭なBJに強張った表情のピノコの腕を掴んでおり、いかにも自分は場違いであると嫌でも分かった。
ピノコと眼を合わせると、退去した方がいいと合図された。それに同意するよう頷く。
「あ、締切明日までの宿題忘れてた!あっはは~…じゃあねッ!!」
苦笑しつつ豪快に開けてしまったドアを閉めようと引くが、阻止。
「お前さん、事情を知ってるな?」
ソファに踏ん反り返り腕組みするBJは呆れた声で言った。
「あのなー…私の慌てた姿を見たかったからってくだらんことをするな」
「すみません」
ピノコと和登は小さくなって謝罪する。
「嘔吐の音はテープレコーダーで、このために我慢して梅を食べたと…まったく本格的なこった。
で、和登さんがいろいろと手を貸してたというわけか」
「おっしゃる通りで」
彼女らは私が不在中、この妊娠疑惑計画を企てていた。
事の発端は、ピノコの「先生の慌てた顔みたいなぁ」という呟きからでそれを聞いた和登がこの計画を提案したそうだ。
そしてやるからにはとことん驚愕させようと思考を重ね盛り上がった矢先、予期せぬ帰宅の早さに急遽当初の計画事項を削減し変更。
だからあの朝、慌てて買い出しいったのは和登のところに行っていたのかと納得した。
それに対して不審がる私の反応を見るためで敢えて分かりやすいように演出をしていた。なんと悪趣味な。
ちなみに相手の男役は、キリコに依頼するつもりだったという。
奴なら本当にやりかねない。電話し忘れた自分に感謝だ。
和登の見送りから帰ったピノコは、玄関のドアを閉めると、とぼとぼと自室に向かって歩き出した。
するとリビングからカチャカチャと音が聞こえる。
中を覗くとこちらに背を向けたBJがパソコンに向かって仕事をしていた。
心なしか、キーを打ち込む音が強く聞こえる。
ピノコはうなだれた。
(まだ怒ってるよね…)
機嫌直してもらうためにも夕飯は先生の好物を揃えて出そう。そう思ったピノコは献立を考えながらまた歩き出した。
「子供欲しいのか?」
「ふぇ?」
BJはそのままディスプレイから目を離さずに軽快なタッチで打ち込んでいる。
独り言でも言っているのかと思うくらいぼそっと呟いたその問いに、自分に対して向けられたものなのか戸惑った。
「子供って…養子とるの?」
「いや、私とお前の子」
「えぇ?!」
ピノコは耳を疑った。解釈するに時間がかかり声を発するまで間が空いてしまうほどに。
「年相応の体になったわけだしバラバラだった体に子を成せるか興味あるしな」
「興味あゆってピノコ実験台じゃないのよさ!」
「じゃあ欲しくないのか?」
「そ、それは…」
返事に窮してあれこれと考えていると、いつの間にか目の前にBJがいた。
そしてピノコの耳元まで顔を近付かせると囁いた。
「子供と一緒にその舌足らずの直してやろうか。母親がちゃんとしてないと情けないぜ?
さて男と女、どっちがいい?」
その囁きにびくっと肩を震わせる。顔全体真っ赤に染まったピノコをニッと笑い楽しそうに見ている。
にじり寄ってくるBJにどぎまぎしていると、手が伸びてきた。
反射的に目を瞑る。
「冗談だよ。驚かそうとした罰だ」
髪をくしゃとさせ、軽く撫でるとまたリビングに戻っていった。
《終》